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2007 - 11 /12
「風雪のビヴァーク」 松濤明
今月と来月はウィークデイにいっぱい休みをいただいてまして、人のいない静かな野山を歩けるぞと思っていたものの、もう11月も半ばとなると寒いし天気は不安定だしで、どうも気が乗りません。
なわけでそんな日は、山に思いを馳せるべく山の本を耽読するのも一興です。
山岳小説の古典、「風雪のビヴァーク」(著者:松濤明)を読んでみました。
山をやる人の中から、これを読んでない人を探す方が難しいくらい有名な随筆です。
初めて読んだのは中学校のときで、そのときはあまりピンとくることはありませんでした。
大学生になってまた読んでみたけど、やっぱりそれほどピンと来なかった。
そして、初めて読んだときから 20年以上経った今回、オトナになったぼくは今度こそピンと来るのだろうか。
山と渓谷社からよそいも新たに「新編」として出版されたものを読んでみました。

「随筆」と書いたけど、もう少し細かくいうなら日記や紀行文に近いといえるでしょう。
今の言葉でいえば、これはまさしく Blogのスタイルと同じですね。
○月×日 雨
J君と hogehoge山に登った
みたいな文が延々と続きます。
ただしその中身は、そこいらの山ヤが束になってかかっても敵わないような、とてつもなくハイレベルの登山日誌なのです。
14才の年には年間20回の山行、15才の冬に北アルプスや八ヶ岳、そして16才にして社会人山岳会に入ってからは数々の初登や第二登を記録していきます。
第二次世界大戦に動員され一時的に山を離れるも、復員後は活動を再開し、ふたたび登山史に残る輝かしい記録を次々と打ち立てていきます。
「風雪のビヴァーク」はただひたすらに、これらの記録が日付順に書きつづられていきます。
最後に聳え立っている、槍ヶ岳北鎌尾根への死の登攀というクライマックスに向けて、よどみなく、一歩一歩、淡々と進んでいきます。
どれほど素晴らしく煌びやかな初登頂の記録であっても、それは最後に待ち受ける死に接近していく一歩であり、ぼくがその輝かしいページを一枚めくるたびに、かれは死の尾根へと近付いていくのです。
そして昭和23年12月21日、冬の北鎌尾根へ向けて登攀を開始します。
季節外れの大雨のために激しく消耗させられながらも、明けて昭和24年の元日には北鎌のコルにまで到達します。
悪天候に消耗していたのは身体だけではなく、冬山で飲料水を得るための命綱となるラジウス(コンロ、ストーブ)までもが破壊され、ガソリンを直焚きせざるを得なくなっていたほどです。
ラジウスが破壊されてしまったこの日こそが、彼の生死を分ける最後のターニングポイントになりました。
1月2日の日記には、このように記されています。
<引用>
動悸激しく、風雪は昨日にもましてひどいし、
濡物もそのままなので一日沈殿。
上るか、下るかの岐路に立つ。
</引用>
ラジウスが壊れてしまったうえ、大雨のせいで衣服が濡れている状況では、冬の北鎌尾根の登攀を続けることなどほとんど不可能といえるでしょう。
それをしっかりと認識できていたゆえの「上るか、下るかの岐路に立つ」だったはずです。
ところが何ということか、彼はこの登攀の続行を決意するのです。
<引用>
入口閉塞その後二回。
夜、星空となる。
ラヂウスも応急修理で何とか燃えだしたので
明日は登行とする。
</引用>
もしラジウスが壊れたままだったら、もしこの夜も激しい風雪が続いていたら、彼ら(有元克己との2人パーティです)は翌日に下山を始めたんじゃないだろうか。
そう思えてなりません。
1月3日、不可逆点を超えて、回避不能の死の登攀を開始します。
1月4日には独標を越え北鎌平への途中でビバーク。
「有元ハ足ヲ第二度トウショウニヤラレル」とあります。
1月5日、なおも風雪は続き、身体も服も装備も何もかもが凍り付いて、アイゼンを付けることすら出来なくなり、ついに遭難を決定づける出来事が起きます。
<引用>
・・・アイゼンツケラレズ、ステップカットデ
ヤリマデユカントセシモ(有)千丈側ニスリップ
上りナホス力ナキタメ共ニ千丈ヘ下ル・・・
</引用>
(・・・アイゼンを付けられず、雪面をステップカットで足場を作って槍ヶ岳まで行こうとしたが、有元が千丈沢に滑落し、上がってくる力はもうないようなので、自分も共に千丈沢へ下る・・・)
恐らくは、千丈沢へ下降することを決めた時点で、彼らの遭難は決定的なものになっただろうと思うし、彼もまたそれを自覚していただろうと思います。
だけどもそれは、行間から読み取った推察にすぎません。
記された文章のみ注視するならば、彼はまだ死を考えてはいません。
そして 1月6日、最後の日。
のちに文学作品として高く評価されることになる遺書は、この一文から始まります。
<引用>
全身硬ッテ力ナシ.
何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、
死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ タダカンシャ.
</引用>
「このときの天候で一人で湯俣まで下りるなんて出来るものか」、というような論評もあるようですが、これまでにもっと困難な登攀を幾度となく成功させてきた彼の実力を考えれば、べつだん荒唐無稽なこととは思えないし、単独であるが故に容易になることもあります。
これはむしろ、生き残る力があるにもかかわらず死を選ぶことへのエクスキュース、と捕らえる方が自然だとぼくは思います。
ぼくはそれを、次の一文から確信しました。
<引用>
サイゴマデ タタカウモイノチ
友ノ辺ニ スツルモイノチ
共ニユク
</引用>
書きたいことはもっとたくさんあったはずなのに、書ける場所はほんの数ページの手帳しかないのに、わざわざ二度も同じようなことを記したということ。
よほどこのことを強く伝えたかったのだろう、とぼくは考えます。
そして手記は終わりにさしかかります。
そこには不思議な一文が記されます。
<引用>
我々ガ死ンデ
死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、
魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル、
個人ハカリノ姿 グルグルマワル
</引用>
これはいわずもがな、輪廻です。
この一連の北鎌尾根での手記だけを読むならば、不思議な印象は持たなかったでしょう。
けれど「風雪のビヴァーク」を最初から読み進めてくれば、松濤明の書く文章からだいたいの人となりが読めてきます。
ぼくは彼を、完全無欠の現実主義者だと思っていました。
たぶんその見方は間違っていないと思います。
そのように見ていた人間が、よもやこのような輪廻について書こうとは、まったく想像だにしませんでした。
死を前にして突如このような思念が浮かんできたのでしょうか。
あるいは元々この現実主義者の心の水面下には、実は仏教の思想がひそんでいたのでしょうか。
いずれにしてもこの一文は、声を出してしまうほど華麗な裏切りでした。
手記の最後は、この一文で締めくくられています。
<引用>
西糸ヤニ米代借リ、三升分、
</引用>
西糸屋というのは、今も上高地にある山荘のことです。
彼はこの山行の準備として、12月12日に荷揚げを行っているのですが、その時の手記に「西糸屋にて干飯、餅各三升依頼。」とあります。
遺書の最後にそのことを書くなんて、よほど気がかりだったのでしょう。
後に残された人たちに、極力迷惑をかけないようにという配慮がうかがわれます。
でもここでぼくは、気付いてしまったのです。
三升分の次の文字は 「、」
読点なのです。
読点で終わる文章なんてあるはずがありません。
彼はまだ、書き終えるつもりはなかったんじゃないか?。
言葉は浮かんでいたのに、それを文字にすることができなかったんじゃないか?。
ついに指が動かなくなったのか、意識が混濁してきたのか、あるいはこの瞬間に絶命したのか、それは分かりませんが、この最後の読点にぼくの胸は強く締めつけられました。
死を覚悟した人間が、極限状態のさなかに何を考えどのような行動をするかなんて、ぼくにはまるで想像できないけど、この手記にある松濤明は、慌てたり取り乱したりすることもなく、きわめて冷静に必要な言葉を必要な分量で書き遺しています。
「生」のただ中にいるぼくよりも、「生」から最も離れた場所にいる彼のほうが美しく見える。
たとえ死の装飾がなくても、その美が陰ることはないでしょう。
自分が同じような状況に陥ったとき、こんなにも冷静で美しくいることができるだろうか。
最期の瞬間まで人間としての矜恃を持ち続けていることができるだろうか。
おそらくそれは、「その瞬間になってみないと分からない」などということは、ないのだと思います。
平凡な日常を無駄にせず、その時が来るまでの、死から遠く離れた日常をいかに生きるか、その積み重ねなんだろうと思います。

メメントモリ。
それが読後に浮かんだ、ただ一つの言葉でした。
投稿者 hamayo : 2007年11月12日 23:14
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悟りを開いても、こっつぁむいお山で逝くのはイヤじゃのう!
今シーズンも得意技は『途中撤退、ここ山頂!』で行きまひょ。
今の世の中やったらこの遭難は、絶対に「無謀登山」ていわれて叩かれとったやろうね。
時代の違いですな。
まー寒ぅても暑ぅても山で死ぬのはゴメンやし、あんさんが滑落して登って来られんようやったら、ワシはとっとと下山してオケゆうこっちゃね。
あ、来月はkacchinはんがおるから、有事の際はワシら2人ともおんぶしてもらえるんか?。
あれれれれー、あんた両古美のネタで『山の一部になりたいといつも思う』って書いてるやん(笑)
ならお山で逝くのは本望ちゃいますのん???
フェラコブラ外れるぞ、外れるぞ!
いや、意外にkacchinはんはブラックやさけー、あさーり置いてかれると思われ(笑)
山の一部になるゆーのはだな、つまりアレですな、ほれ、そうそう、それやがな。
うん、わかればエェねん。ふむふむ。
まー来月んときはワシの場合、イエローシュプールのせいで「ここワシらの山頂!」の山頂にさえたどり着けへんで、「ひとりぼっちのココ山頂!」でぶっ倒れるやもしれんでな(笑)。
まーそんときはアンタら、ワシの貴重なイエロートラックが使えんよってに、帰りは道に迷ってくれたまえ。
hamayoさんが初めて槍ヶ岳に登られたのはいつですか?
北アルプスへは何度も行かれたのですか?
槍に登ったことは一度もないですよ。
穂高もないですね。
昔から天の邪鬼だったので、一般の人にはまるで馴染みのないような山ばっかり行ってました。
ある年の夏休み明けに学校の先生から、「おまえ北アルプス行って来たんやて?、どこ登ったんや?」と聞かれたので、「折立から太郎平を抜けて薬師沢に降りて、雲ノ平で3日遊んでから、祖父岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳、双六岳、笠ヶ岳と縦走して新穂高温泉に下りました。6泊7日かかりました。」って報告したら、「?????」って顔をされたのをよく覚えています。
昔のことなのでもうだいぶ忘れてしまってるけど、有名な山っていったら白馬岳くらいのものかなぁ。